昭和44年04月20日 春季大祭
ただ今親先生から懇切な御教えを頂きました。御理解21節でございましたね「わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」とわが心が神に向かうと私ただ今、親先生の御教えを頂かせて貰いながら、その御理解21節の神意とでも申しましょうか、その本当の心と云う様なものを感じさせて頂きながら、お話を頂いたので御座います。お話を聞いて助かると、ですからあのぅお話を聞いただけでね。
助かる人もありゃ、助からん人もあるでしょうが、ですから助からなきゃいけんのです。だから本当にそのぅそこの神髄とでも申しましょうかね、其処ん所が分からなければ、話を聞いて助かる、唯話を聞いておれば助かるちゅう事じゃない、それは親先生のお徳というかね、そのぅ只話を聞いただけでも、おかげは受けます。 けれども本当の事は、矢張り自分の心の上におかげを受けなければいけんのです。
ですから金光様のご信心のというのは、まぁ本当に有難いですお話を分かっても、分からんなりおかげを頂く時は頂きますけれども、お話を頂いて自分の心が助かるその助かった心に、私はおかげを受けるというのじゃなからなければいけない。そこで私はただいまの親先生のお話を頂いて、私が頂いた所を皆さんに聞いて頂きたいと思うんです少し。少しお腹も皆さん、おすきになっとりましょうけれどもね。
矢張りご飯よりも、やっぱりおかげの方が。普通のままになるだけじゃいかん、本当のおかげがままにならな詰まらん、そこで、その本当のおかげがままになる一つ、おかげを頂く為にもですね、ただいま、今の御教えを頂いて、本当に頂いていかなければいけんと、私は思うです。カンンテラの中に油が一杯あっても、芯がなければ火が灯らんと仰る芯とは、どう言う様な芯だろう。
いいですかこの世の中に、おかげはもう一杯もういうならば、もう降る様にあってるんだと、そういう例えばです、おかげの中にあっても、氏子に芯がなからなければ、火が灯らんと云う事は、明るくならないと云う事。明るくならないと云う事は、助からないと云う事。心が助かる、様々の難儀の中に、おかげを頂くと云う事によって、明るくなるんです。それにはお互いが、その芯がなければ火が灯らんと仰る。
その芯とはどう言う様な芯だろうかと思うてみなきゃいけません。 わが心が神に向こうのを信心と言うのじゃと、ですから金光様のご信心しとりゃぁ誰だって神様の方向いとりますよね、柏手うって拝む所は大して変わりはありはしませんのです。ですから矢張り神様へ向かっておるんだけれども、唯そういう向かい方でですおかげを受けられないなら、そういう向かい方ではいけないんだと一つ分からないかんと思うんです。
そうでしょうが。ですからわが心が神に向こうて、言うならば、神様へ一歩一歩近づいていくという信心なんです。そんならば、それはどういう信心さして貰うたら良いかと、そこには私は一心を立てなければです、一心を立てなければ、私は神様にはなれん、わが心が神に向こうては進んでいかない、成長しない、只神様の方ば向いとるというだけじゃいかん、是に近付いていかなければいけない。
私は親先生の御教えを頂きながらそう云う事をしきりに考えたんです。昨日色々様々な役割をにその御用を皆さん分担なさっておられます。お部屋が沢山ありますからお花だけでも沢山の事です。ですから一人ひとりこの部屋は誰々と言う風に、その部屋を決めて何時も御用を頂かれます。ちょうど用がありまして洋間に参りましたら、小倉の富永という方が受け持って、そのところにお花を活けておりました。
もう半ば出来上がっておったお花を私見せて頂きながら、「富永さん、この頃あなた、お花が上達したね」と私が申しましたら、「有難う御座います」と、この方本当にあの親の里に参りましたら、いっぱい庭に咲き乱れております芍薬を 切って来て。矢張り自分で木取りをして自分でお花を入れておられる、もう洋間にまぁマッチした、もう見事な花が活け上げられておった。
それで私が「この頃あんたお手が上がりなさったばい」と言うたら、「先生私はお花が好きで御座いますから」と成程週間週間に必ず習わして頂きますけども、この頃ではね花が花を教えてくれますと言われた。私は素晴らしい事だと思うね。私共が日々お参りをさしてもろうて、御教えを頂きます。それはどこまでも、私共のおかげを頂くヒントなのだ、だからやはり信心が好きにならなければダメなんです。
好きにならないとですねいわゆる信心が信心を教えてくれないのです。信心が信心を教えてくれる、そこに私はおかげを受けられるね。昨日、福岡から参って来るご信者の中に、高橋という方があります。熱心に毎朝、福岡から、毎朝日参してまいります。もう何年続いております。大変忙しい、本店支店の大きなお商売をしておりますから忙しいです。けれどももう神様事と言うたら、もう熱中するんです。
もう事大祭と云う事になったら、もう一週間ぐらい前から、ずぅっとあれ是と掛り切って、御用頂いておられます。ところがその昨日は取分けお店の方が忙しかったんです。朝の御祈念に参ってから一遍福岡に帰ってすぐ、また出なおして来る積りであった。所があまりに忙しいもんですからその事だけぐらい俺が手伝ってやろうというので、そのぅ自動車でもって店の用をまぁ手伝っておられた。
ところがそのトラックにぶつかった。勿論相手はトラックですからトラックの方には怪我はなかったけれども、こちらの方の車がだいぶんそれた。それで昨日その事を終えてすぐお参りして見えてから、ここでお届けになるんです。「先生今日はおかげ頂きました」大難を小難でお祭替え頂いたと言った様な事じゃないんです。所謂信心が信心を教えてくれると云う事が有難いというのです。
こと神様ごとにならですね、まぁゆうなら前には進んでも、後ろには引かんと言う様な気持で信心さしておるんだけれども事しかも大祭だというのでです、神様へ心を一生懸命向けておるのだけれどもちょっと自分の心の上にその忙しいと云う事に引っ掛った訳です。それをさして頂きよったら、もう神様からこの様なおかげを頂いた、お気付けを頂いたと云う事が有難いのだと、是から例えばもうこの様な事でです。
なまじっか忙しいとか是だけ儲かるとか損するとか、と言った様な事なんかは問題じゃない神様へ向けていかなければ駄目だ、日頃頂いておる其処ん所を行じられなかった事に対するお気付けだと分からせて頂いたというのです。私は信心が信心を教えるというのはそう云う事だと思うんです。だから一回ぶつかってみなきゃ分からん(笑い)今朝の御理解に、今日親先生から頂いた様な御理解を朝の御祈念の後頂いたんです。
皆さん私位の年配の方ならみんなご記憶があるでしょう。しのだみのるという浪花節がおりましたよね、今の若い方は知らんでしょうもう大変なそのブームを起こす位であった。それが紺屋高尾というもう大変なその勢いで売れたんです。その例えば紺屋高尾のね、例えば筋をまぁ申しますならかい摘まんで紺屋の職人です。ところがある機会に当時吉原で一位といわれる高尾というおいらんの道中にでっかしたんです。
あまりに美しいから、もう見惚れてしもうた、そしてその人が思うたんです、男に生まれてですよ、一遍、あげな美しか女子ば抱いてみたいと思うた。もう男、男冥利なんだ、もうそれこそ、あれと一遍寝たら死んでもよかちゅうごと思うたんです。さぁそれから帰ってから思う事です。寝ては夢、夢ではそのうつつと言う様に、その紺屋高尾の事が心の中から離れない。思い続けたんです。
それこそ是が痛となるごと、思うたんでしょうねきっと。そしてですそれから、一生懸命働き出したんです、もぅその金は使わんもう働くばかり、金をそれから何年かの後にです、その吉原で1か2かと言われる程しの、その高尾を何ていうんですかね、まぁいうなら、買う事がでけた。私はですね、あの信心さして、先程の先生の、お話の中にもありましたようにね、神様が慕わしゅうて、慕わしゅうてと言う様に、ならなければいけないと思うんです私は。
私は神様がその様にならなきゃいかん、寝てもね、例えていうなら、神様そげん体がその御座る訳じゃなかもんじゃから。それこそ、もう寝ても覚めても神様、神様と言ぁ、金光様、金光様と言ぁ、親先生の顔が目の前にちらつく位ならにゃいかんです。親先生が何か御用ば言やぁござらんじゃろうか、「親先生が」とこう、私はね、本当におかげを頂いてくのはそこだと思うんです。
そういう例えば一心を持って、その一職人がです、それこそ食う物も食わん様にして貯めた金で、たった一夜の遊興に使う、そのおいらんを一夜妻でありますけれども、抱いて寝たいと思うて一心になった。あまりにもその純真なのに、今度はその高尾の方が惚れ込んだ。実は私はこうやって遊びに来てるけれども、これは何年間あんたを見初めて何年間、この事に一心に打ち込んで。
ようやく今日その思いをたっする事がでけたんだと、思うて見ると、また明日から職人と、紺屋の職人として働かなければならないんだと、と言う様なその物語を致しますと、紺屋のその、高尾の方が関心したんですね。何とかいうてね、名せりふがあります。「女は客に惚れたという、客は来もせで、また来るという」と言う様な、もう嘘と嘘との色里でです。あなたの様な真実な人を見た事は初めてだったと。
女と生まれてあなたの様な人を主人に持ったら、それこそ女冥利に尽きるんだ3年したら年があく、どうかその時に私を女房にしてくれち言うた、もうそれこそ夢のような話なのである。私はその話を今朝から皆さんに聞いて貰いながらです、私自身の事を思うた私も初代の荒巻先生のお取次ぎで両親がご信心を頂き、ない命を何回も助けて貰いもう小さい時から金光様、金光様で育てられ。
ぁ運動会といやぁ早よお届けに行って来い、遠足といやぁお願いして御神米頂いていかなぞというてそういう中に育てられてきた。私は段々長ずるに従って、どうでも商売で身を立てたいと思うておった、だから私は本当に商売の神様になろうと思うた、だからその位に、この位の時分から打ち込んどりますけ、私は本当に誰よりも商売上手でした。他の事はでけんばってん、それこそ商売だけならです、もう人後に落ちない、いわゆる自信を持っておった。
けれどもです、そういう自信を持っておったけれどもです、何十年商売をかけてきたんですけれどもです、心の底にはね、私は神様のおかげを頂かなければ、幸せにはなれないんだ、立身出世は出来ないという思い込みは、もう非常に強かったんです。調子が良い、そういう時にはそういう時程です、これは危ないぞと、私は神様のおかげを頂かなければ立身出世はでけない、神様のおかげを頂かなければです、私は成功はでけないという、この思い込みは非常に強かった。
そういう例えば思い込みがです、商売の上にも、成程おかげは受けましたけれども、その商売が、こう云う事になって来た。誰ぁれも私は金光様の先生になろうてんなんてんちゃ、本当にもう是から先にも思わなかったんですよ私は、先程の佐藤宿老の話しにでておりましたが、それこそ世界の、今様左甚五郎になろうと、例えば念願された、佐藤宿老がです。いわゆる金光教の佐藤か、佐藤の金光教かと言う程しの体得を受けられたという話がありましたが、私もそうでした。
商売の神様にはなろうと思いよったけれどもね、こう云う事になろうとは夢思わなかったけれども、そのさっきの紺屋の高尾じゃないけれども、一晩でもよいと思うて一心を立てたらどう云う事に飛躍しておるか、展開しておるかというとです、一生あなたの女房にして下さいと云う事に迄になって来た。3年したら年が開くからその時私の方から行きますと云う事に成って来た。
神様が私の場合そうです、私は商売の神様になろうと思うて一生懸命なった、商売の御用を頂いて、儲け出してから大きな御用もさして頂こうと思いよったけれども、神様がこういう、とにかく飛躍がこう言う風な飛躍に、それこそ紺屋高尾がね、一晩でよかと言うとったつが、一生抱いて寝られるごたるおかげを頂いた様なものだと私は思うんです。そこでです、私は最近思いまして、思わしてもらいますのに、金光様を心の中に念じますとね、どう云う汚い心が起こっておっても。
それが浄化される様に、有り難い心になります。もう辛抱がでけないと言う様な時でも、金光様、と念じさせて頂くと、泣く程辛い様な事の中からでも、そこから有り難いものが湧いてまいります。またそれとは反対にです、それこそ思い上がらなければおられない程しの、おかげを頂いて、そのおかげの中にあって、はぁ危ない危ない、これは慢心ぞと、自分で気が付く程の、まんしんが出る時に、金光様と唱えると、そのまんしんが平常心になる事がでけます。
折角お互い、金光様を念じさして頂くので御座いますから、私の心の中にどの様な汚い心が起こっても、金光様と唱えたら、その心が浄化される位なおかげを頂きたいと私は思います。どんな欲望が起こりましても、金光様・金光様と念じさして頂きよったら、その欲望が取れて、いわゆる和賀心になる事ができると云う位のおかげを頂きたい、ただ金光様が空念仏ではいけないということ。
私は今日、親先生のお話を頂きながら、一心とか、芯がなければ火が灯らないというのは、私はそういう芯だと思うんです。金光様と唱えたらです、もうそこに一心が立つのです。立つから神様がです、私の心の中に、先日もね、親先生、あなたの様な真似はでけません、とこう言う。もう私の方が汚い、私がよっぽどよか、綺麗な心ばもっとる(笑い)同し事よ、あなたと同じ事よ。
ひょっとすると、あなたよりも私の方が汚いかも知れん、もうそれこそ泥田んぼ汁のごたる心が、私の心の中にも渦巻く事があるけれども、私はおかげで金光様、金光様唱えさして頂きよるとです。それが丁度ろ過された水の様に、だからここの所は誰も同じ事、汚いというたらもう自分の程に汚い私はないのだけれどもです、それから先の金光様が違うのだ、神様が聞いて下さるその経度が違うのだ。
そういう金光様を頂いておる成程そういう一心ならばです、成程ここにあるカンテラの中に一杯溜まっておる油の中に、そういう一心を立てるから明るくなるんだと私は信じております。いかにどんな事を言うてもどういう素晴らしい事を言うても、明るうならなかったらダメ助からなかったらダメ、いわゆる芯を立ててそれにマッチが点じられる時にです、もう本当に周囲が明るうなるというおかげでなからなきゃだめ。
そういう私は、一心を目指して信心さして頂く事がです、「信心せよ、信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」というのは、そういう心を目指して、私は信心することだと、こう思います。お互いの心はいわゆる、まぁ申しますように。例えばここは水洗便所でしょ、けれども、ジャーと水を流してから、その田に出る時には、もう飲んでも良いごたる水になってるんです。素晴らしい事でしょ。
私共は、それこそ糞尿にも等しいような汚い心を持ってるんだけれどもです、金光様という、その濾がけにかけていきます時にです、それが蒸留水にもなり、薬にもなるようなおかげ水に成って来るのです。そのおかげ水に私は、まぁ潤うておるのが合楽のご信者さんだと私は思います。ね、皆さん自分の心が神に向こうて行くと云う事がです、それはね私くしでもそれこそ汚いことを思うこすいことを思う。
いくら金光様金光様金光様ち、こっちで金光様金光様ちゆうてから片一方んとでは悪いこっしよる。ういう時代からです、それをおかげで一分一厘づつでも、神に向かう信心がでけさして頂きよりましたら、この頃は金光様を唱えさして頂くとです、どんな汚い心でも有難いものにどういう汚い心が起こってまいりましても、それが我ながら自分で心が拝みたいごたる心にならして頂けれると云う事が、信心さして頂く者の値打ちだなと云う事を感じさして貰います。
そういう信心を願い、そういう信心をめあてに、お互いが信心さして頂く所からです、信心が必ず好きになります。初めから好きなもんなおらせん、そう滅多におりゃしません、いわゆる、花が花を教えてくれる様に、信心が信心を教えてくれる様に成って来る時にです、もう信心は止められん、離されん、どの様な中からでも信心を頂きたいという、有難い心を求めての信心に成って来る。
そういう心にです願わんでも、頼まんでもおかげは頂けて行くのが、所謂明るうなって行くのが御道の信心なんです。どうぞ一つこの御大祭を境に、倒れ転びでもいいです、金光様金光様と唱えてもいっちょん聞かっしゃらん、聞かっしゃらんでもいいから金光様、金光様と唱え続けさして貰うてそっから修行さして頂いて、お取次ぎを頂いてその汚い心に取り組んで行く、その汚い心がですたまには有難い自分で自分の心が拝みたい様な心が生まれて来る、それが私は金光大神だと思います。
そういう有難い心が、本当持続でければいいんだけれども、今日申します様にもう年中自分の心の中に汚い心が渦巻く、腹が立つ、情けないと思う。この頃私はここ4・5日間体験させて頂く事出御座いますけれども、此の方の道は傘一本で開ける道と仰せられまするが、皆さん本当に傘一本で開ける道なんです。傘一本持っとれば商売が無償にでもでける道なんです。
だから傘というても、唯の傘じゃいかんと、いわゆる神様を信じて止まない、どの様な場合の中にあっても、どの様な中にあっても有難いと思えれる心、言うならば安心の心、この神様さえ頂いておればもう間違いない絶対の心、そういう信心、そういう安心の傘を持たして頂く時にです。どんなに例えば曇りの日に出かけて行くでも、心に不安がないでしょうが、傘を持っておるから大丈夫。
どんなに照っても熱い思いをせんで済むでしょうが、そういう私は傘一本で開ける道であると云う事をですまた一つ言い換えるならばです、此の方の道はですね、黙っておっても開ける道だと云う事です言わんでも良いと云う事です。黙っておって、なぜ黙っ歯痒いなぁ、腹のたつ事じゃなぁ、目に余る事があるなぁと、それを例えば言うて聞くならいいけれども、言うて聞かない者を、又は自分の心を割って話して、あぁそうじゃったかと、合い通じ合いましてもです。
もうその次には、又難儀な問題や分からない問題が起きておるとするならば、もう言うちゃならん。それは神様を信じておるから、神様だけがご承知の世界に生き抜く事が信心だと信じさせて頂く信心、そこには言わんで済む信心。さぁ大祭ともなると、あれも是もと色々気使っておったのが、今度の大祭なんかは、私は何にも申しませんでした。ありゃ是は、しかし心の中で思いよった、前の日まで。
こりゃもうこりゃ大祭にはいうなら半年兵糧を頂かなきゃいけんのに、もう今年はもういよいよ来るとだけは来たかというてお米が8俵ぐらい来とった。こげなこつじゃ食べて行かれんがと思うてからね、(笑い)この頃から5俵ばっかり特別に頂いとった、お供えば。それけん神様が差し引きなさるじゃろうかと思いよった。さぁそしたら昨日になったら、何処この誰が持って来るか分からんけれども、是だけ集まった。
お酒でも何でも、一樽というお供えがあったんですけども、お供えがしようがなかった。頼まんでも、願わんでも、黙っておっても、おかげの頂けえる道であり、開けていく道がつくのです。そういう神様を頂きたい、そういう神様に向かって信心を進めていきたい。私はそう言う風に思います。どうぞひとつ、お互いがね、成程おかげを頂かなければなりません、けれども、おかげも頂かなければなりませんけれども、信心を頂くことの楽しみを、まず頂かなきゃいけません。
そこから、信心が信心を教えてくれる、そこに信心がいよいよ好きになる、寝ても覚めても、ここへ気が付くのは、神様ちいうたちゃ分からんけん、親先生。今日はあっちこっちから、全国から電報が来とりましたでしょうが、最後に親先生有難う御座いますばっかり、みんな言うとるでしょうが、矢張りそんなに遠隔地におっても、おかげを受けてるんです。いわゆる目をつぶれば親先生。その位に一つ、私と皆さんの間の中にです、おかげを頂き、たいものだと私は願ごうております。
そこから、金光大神取次ぎの道と云う事が本当に分かる、そして私共が拝ませて頂いておる天地の親神様というお方が、どういうお方かと云う事が分かる、成程この世の中には、もうそれこそおかげは無尽蔵、限りがない、それこそカンテラの中に油が一杯ある様な中に私共は住まわして頂いておるんだけれども、芯がないから火が灯らんのだと分からしてもろうて、その芯を求めて信心さして頂かなければいけんと思うのですよね。
どうぞ。